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かつて東京で暮らしていた時、どうしても惹きつけられてしまうのは、社会から求められるあり方に自らを上手にカスタマイズしていくことのできない人たちだった。「炭鉱のカナリア」という言葉があるけれど、当時の彼らは間違いなく都市のカナリアとして生きていて、そのささやかな生の営みや、沈黙にも似た身体の気配は、写真によって残さなければ時代の大きな声にかき消されてしまうように感じていた。
僕は写真を手にするとき、いつも抱えているひとつの眼差しがある。それは、どこからどこまでが自分の身体なのだろうか、という問いだ。身体の中を流れる水がこの地表をめぐり続けているように、ここからは見えない遠い場所とも、人はどうしようもなく関わっている。
その一方で、現代を生き延びる人は、その過密な環境や、あるいは心の声から「分断された身体」を生きてしまうことがある。しかし、その澱みの中に立ち止まる時間は、身体に潜在する声と向き合う過程でもあるはずだ。生を刻むリズムは常に一定ではない。時に、地下深くへと降りていく彼らのか細い水脈がどこに行き着くのか、その過程をただ見届けたかった。
最初の撮影から、もう10年になる。途方も無い出会いや経験の連鎖が、生をかたどる輪郭を変化させ、自分で規定していた境界さえ越えていけることに、静かな意味を感じている。
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