京都国際写真祭 KYOTOGRAPHIE KG+SELECT にて、山元彩香さんとの対談「身体の声を翻訳する」 2019.5.3
—こんなに繊細で脆い身体がどうしてこの社会の中で生きていられるのか
堀井(以下 H) 本日は個展「見えない川」のトークイベントを開催するにあたって、写真家の山元彩香さんをお招きしています。今回のトークは「身体の声を翻訳する」という演題をつけているのですが、山元さんもポートレイトを軸とした作品をつくられています。山元さんの作品を見ていると、身体を通じて眼差そうとしているものへの共感と、それと同じくらいの得体の知れなさがあって、いつか一緒にお話ができたらいいなと思っていたこともあり、このたびお声がけさせて頂きました。
山元(以下 Y) 私は以前から堀井さんの作品を観てるんですけど、ずっと変わらず透明感があって繊細で、貫いてるものがあるなっていうのを今日またさらに改めて実感して。内と外をかろうじて繋いでいる皮膚みたいなものとか、その皮膚の繊細さと温かみみたいな。写真は匂いとか温度とか無いんですけど、それをすごく感じるというか。ポーズとして、人と人が触れてる写真って多いですよね。だからかもしれないけれど、温かみみたいなものを感じる。それでいて色彩はすごく爽やかで、すごい遠い世界のことのような感じですごく不思議なんですけど。
そういえば最近ラトビアで、ポートレートを撮る時に色々インタビューをするようにしていて、その時に「自分はどういう成分からできてると思う?」という質問をするようにしてたんですね。その時に18歳くらいの女の子が「ガラスと鏡と氷」みたいな、全部透明のすぐ割れるものを言ったんです。「なんで?」って聞いたら、こんな繊細で脆い身体がどうしてこの社会の中で生きれているのかすごく不思議に思う、と言ってて。堀井さんの写真を観ていたらそのことを思い出しました。
H 彼女にとっては、人間の身体の印象がそういう脆さをイメージさせるものと繋がっていたんですね。ある種の生きづらさに結びつくような。
Y 生きづらさということに関して言えば、自然の中にいる人間として、自分たちが本来持っている身体の感覚とか可能性とか、そういうものがどんどん発揮できないような環境になっているように感じていて。こないだアフリカに行っていたんですけど、その時も電気がないので、自ずと暗くなったらみんな寝て、朝日が昇ってきたら起きるっていう。身体にすごく素直というか。
ただ、この日が生きられたら幸せっていうか、万々歳みたいなところがあって。すごくありきたりなことだけど、「貧しいけど、心が豊か」というのはこういうことかなと思ったりしました。
H 山元さんの写真集にも載っているステートメント、ご紹介してもいいですか。
「人間の体は取り巻く環境に寄り添い変化し続け、直面している環境に必要ない勘や感覚が退化していくように感じる。」これ、すごくわかるなと思って。社会ごとに、持ちうる身体のありようっていうのはかなり異なるんですが、それは細かい所で言えば、東京と京都でも違うんです。
例えば、植物も元気がなかった時に土を入れ替えると持ち直すっていうことがあって、それと同じように自分の身体の外に存在するものの影響ってすごく受けているんですよね。どこにいても、その土地固有の速度みたいなのがあって、自分の意思では抗えない大きな流れの中にいるような感覚を持ちます。
—過剰に触れられることと、過剰に触れられないことが極端にある
H さきほど「人と人が触れてる写真が多い」という指摘があったんですが、皮膚感覚っていうものについて考えた時、現代ってもしかしたら過剰に触れられることと、過剰に触れられないことが極端にあって、その中間があまりないのかなって思うんですね。
東南アジアとかにいくと、青年の男性同士がスキンシップをする場面ってよく見るけれど、日本って学生時代のある頃からスキンシップが無くなりますよね。家族と触れ合うことも恥ずかしいことになっていく。
その一方で、東京の満員電車とか、過剰とも言えるくらい他者と接触する空間なんだけど、それゆえに自分の感覚を抑制することでなんとか保たれているような部分ってあるじゃないですか。僕は都市部で暮らしていた時に、オンオフのスイッチをすごく頻繁に切り替える必要があって、でもそれをすることによって身体の感度が総じて下がったというか、鈍化していった感覚があったんです。閉じながら部分的に開いていくような細かい進化がある気もするんですけど、僕の場合はそこに追いつけなくて、そのことが京都に移住してくる理由にもなりました。
—分断された身体を生きてしまうこと
H 満員電車の話もそうなんですけど、そういった日常の中では周囲の環境から自分の身体感覚を切断してしまうことがしばしば起きる。あるいは社会生活を営む上で、自分の振る舞いと心が乖離するようなことが常態になったりする。そういった「分断された身体を生きてしまうこと」のような違和感を目にすることが多くなり、ずっと気になっていました。それは、今回のシリーズの動機にも近い部分です。
山元さんのステートメントの中にも「人の体って土地の記憶や時間を内包している」とありますが、人の身体からどういった情報を読み取られているのでしょうか。
Y 身体の見た目、例えば形や色がその土地によって変わってきたりするように、視覚的な情報として得られることも大きいんですけど。私の場合、人とポートレートを撮る時に、コミュニケーションが断絶されるような状態に持っていきたくて。
大学時代、サンフランシスコに留学してた時に、認知症のおばあさんを撮らせてもらったんです。その時に、いざ対峙したものの入っていけないというか、すごく計り知れないものが身体の中にあるような思いがして。
私は、その人に蓄積されているものを一枚一枚剥がしていくような感覚で、時間をかけてその人のポートレートを撮るんですけど、その人がまとってる空気とかその人らしさとかいった演技のようなもの———。人間が日常の中で全く演技してない状況ってあんまりないかもしれないと思ってて。私にとっての写真は、その演技が焼きつく瞬間を剥がしたい、というところから始まっているんです。そうやって向き合った時に、そのおばあさんから計り知れないものを感じて、その身体の中に詰まっているものを、分からないけど感じてしまった。その体験が大きくて。
それで撮るのを諦めてしまったというか。そこで、私にはできることが何もない!となって。その計り知れなさというか、ふぁっと中に入っていきたいみたいなところがあったんだけど、それができなかったから、撮れなかった。それでも撮ったんだけど。
H 人がまとっているものを、剥がしたものを、求めている?
Y そう。剥がしたものを、求めていたんだけど。結局剥がして中からコロンて出てきたものは、その人をその人たらしめている何かなんですけど、それがまだ何か分からないから色々インタビューとかしたり。それが元々あったのかとか、いつからそれがあったのかとか。
—記号を剥がしたものを見てもらいたい
H あ、なんか共通点というか。僕もその人が身につけているものを剥いだ「精神の顔」が撮りたいとずっと考えていたことがあって。ちょっと個人的な話になるんですけど、10代の頃から、自分の身体の持つ性質についてずっと問い続けてきたんですね。
それは、人によっては国籍のアイデンティティーだったり、あるいはセクシュアリティーだったりするかもしれないんですけど。そこで属性を名付けられることで、自分の状態が固定されてしまうように感じていた。名前があることに対して安心感を覚える一方で、同じくらいそこには生理的な違和感や、記号化されることへの抵抗があって。それを取り去った状態で見てもらいたいっていう希望がすごいあったんですね。
Y わかる気がする。
H ただ、どうやったらそれが可能なんだろうと、ずっとわからなくて。でも、身体にはその人が積み重ねてきた何かが確実に蓄積していくことが、実感としてわかってきた。一見すると当たり前のようなことなんですけど、それは、何年も同じ人を撮り続けて見出せたような感触でもあった。
Y 表情とか変わってきたりするもんね。その人の暮らしとか。
H 長いスパンじゃなくても、一日という時間の流れの中でも変わってて。実は、これらの写真は午前中の写真ばかりなんです。
Y そうなんや!
—眠りという時間が一日で起きたことを濾過してる
H 一日の終わりに人を撮ると、その一日に起きた出来事をまとった身体として写ってしまう。それらの情報が朝になると一旦リセットされて、その時期のニュートラルな身体として立ち上がるように感じられる。そして、どういうわけか風景も午前中に撮ってるものが多いんですよね。展示会場の窓側の写真は、東京と郊外の同じ朝の時間を並べています。
Y あー。だから光にもなんか透明感があって、全部通じてる印象を受けるのは、そういうのもあるかも。すごいフレッシュな感じがする。
H 毎日毎日、自分の意図しないところで、眠りという時間が一日で起きたことを濾過してるっていうか。そういう時間になっているんだなと思います。そのリセットの作用は人だけではなく、人を抱きかかえる都市の風景にも言えるのかもしれません。
お風呂に入ることもすごく浄化に近いというか、特に日本人ってその日にまとったものを落とそうっていう働きが強いですよね。
Y 確かに。お風呂入る、みんな。
H なんか嫌なことあったら絶対シャワー浴びたりする。
Y うんうん。確かに疲れた日は入る。
—どこからどこまでが自分の身体なんだろう
H この写真を撮った時も、同じ場面を分割して撮っていて時間的なスライドがあるんですけど、どうしても一つの画面で撮れない生理的な反応があって。分割してみたい欲求というか、そうせざるを得ないというか。それってなんなんだろうってしばらく言葉にできなかったんですね。一見、すごくコンセプチュアルに見える写真で、意図がありそうなんですけど、その意図を自分が発見できるまでに実はすごい時間がかかっていて。
それが最近、「どこからどこまでが自分の身体なんだろう」っていう問いなんだなってことを、ある時気づけて。風景を撮る時にも、人を撮る時にも、同じ思いがずっとつきまとっています。
東京に住んでいる時、自分が都市という大きな身体のひとつの細胞なんじゃないかと感じていた時期がありました。それは例えば家族や学校のように集団となる母体の大小が変わっても同じで、ひとつひとつの細部の性質によって集合体の性格が決定されるはずなんだけれど、全体に組み込まれたときにそれらは、単一の状態にあった時とは何か違う性質になってしまっている。
さっきの、「周囲の環境から分断された身体についての話」にもあったように、自分の外にあると思ってるものってすごく共鳴関係にあるというか。例えば、一緒にいる人に合わせて、自分の性質が反応して変化していくことってありませんか。
Y うん。変わってくる。
H それって、自分が動いているのか、それとも相手に動かされているのか、見ようとした途端にわからなくなるんですよね。その見方の延長で、撮影の中でも、自分と対象の境界がふっと曖昧になってしまう瞬間があります。
少し話がずれるかもしれないですけど、展示を見にきてくれた友人ともそのような話をしていた時に、彼が「被害者と加害者っていうのもないんじゃないか」ということを言っていて、とてもはっとしました。二項的なものの見方って、どちらかに責任の所在を生ませる構造をつくり出して、本質を見ようとしなくなるよねって。
—変わらない習慣の中で変化したもの
H 自分の住んでる部屋だったり、家だったりも、ひとつの拡張した身体だと見立てて眼差してみると、細部からその人らしさが見えてきます。例えば、入り口に置いている部屋の写真とか、タコ足配線なんですけど、そんな些細なことがこの時代の何かを象徴していると感じるんです。ひとつの口から過剰に電力を供給してしまうことが、そこに住まう人の身体性を反映しているように見える。あと、あそこに窓辺を写した写真があるんですけど、あれも窓辺に空っぽの乾電池が立てかけられていて。
Y 乾電池やったんや。
H 深読みかもしれないですけど、ちょうど彼が仕事を辞めている時期だったりしてて。エネルギーを蓄える電池が空になった状態のものを、でも捨てられずに置いているっていうところが、その時の彼の佇まいに重なって見えてしまう。実はあの写真と対になっている窓辺の写真が一番最後に出てくるんですけど。それがちょうど10年前と10年後の窓辺なんですね。
Y あ、そうなんや。
H そう、今はあそこは小石が置かれていて。何かを窓辺に置くっていう習慣は変わらないんだけど、そこに置かれているものの変化っていうのがこの10年の彼の変化なんだなって。
Y 確かに。そう思ったらすごい象徴的な写真。
H すごく散歩が上手な人なので、気に入った石があるたびに持ち帰ってそこに一つずつ溜まっていったという話を聞いて、その途端に写真と写真の間に、見えない時間が立ち現れた。展示空間の中で過去と未来が顔を向き合わせるようなことがあって、新たに写真に生が通ったような思いになりました。
—自分という人間の輪郭を誰かに引いてもらっていた
H 写真の解釈について、そこには未来に開かれた余白があってほしいという思いが、どこかあります。自分たちは常に過程の存在だから、今という一部分だけを取り出して裁いてみるようなことは対症療法に似ているというか。同じ人たちを10年撮影していく過程で、彼らが自分で自分を規定していた輪郭のようなものが、彼ら自身の未来によって更新されていくのを目の当たりにして、例えば体調を崩すことも大きな流れの中ではバランスを取っているんだと言う風に、見え方が変わっていきました。
ただ、アンバランスなまま膠着している状態は、やっぱり気になってしまう。
Y アンバランスな状態?
H そう。違和感とか、内側から発されるSOSに自分自身が応じていないと、身体がまいってしまう。最初に「こんなに繊細で脆い身体」という言葉が出たように、身体って、思っているよりも鈍感でいられないんですよね。
自分も一時期、大きく体調を崩した時があって、その原因には積み重なったストレスがあった。でもその負荷を強いる環境に対して、従っていたんですね。その状況を今振り返ってみると、自分という人間の輪郭を誰かに引いてもらっていたんだと感じます。でも本当は、いつだって自分で書き換えることもできる。
身体の歪さが伝えるサインを通じて、都市や社会という構造のバランスを眼差しながら、そこから再び私的な身体が持つ豊かさについて問い直せたらと思っています。写真には、人々が境界だと思い込んでいるものやばらばらに見えるものを、新しいイメージとして繋ぎ直せる力があって、僕自身、そういった問いかけの眼差しに随分と救われてきました。
—写真と夢は似ている
Y なんか、写真を始めたきっかけとか聞いてみたい。
H 写真を始めたきっかけ。僕、元々文芸学科にいたんですよ、写真をやる前。
Y 文芸学科?
H はい。日本の近代詩や近代文学が好きだったんです。
Y 文章ね、すごくいいなと思って。どの文章も。写真のテキストだけにしとくの勿体ないっていうか。書けそう。
H 写真を独学で覚えたばかりの時に、鷹野隆大さんの写真集「In my room」にとても衝撃を受けたんです。そこではセクシュアリティーのような名付けの前に立ち止まろうとする態度や、むしろそのことを問い返すような写真があって、初めて写真に見つめ返される経験をしました。同時に、曖昧さを曖昧なまま引き受ける写真の深みのようなものに安堵できたんですよね。それを機に、写真史や美術史の文脈の中で語られてきた写真表現について興味が向いていきました。
Y 文章だと、ある程度やっぱコントロール下に置かれるっていうか。もっとね、写真だとそこから逃れられるけど。
H 写真の場合、イメージに出会った後も、それを未来の自分に託すことができますよね。ある意味、一回手放すというか。すぐ分かれない何かがある。時間を経過させることによって、身体の中に落とし込んでいくというか。あるいは夢にちょっと似ているかも。夢を理解する感覚というか。
Y 私も、写真はいつも夢に似てるなって思ってる。
H 夢って自分ではコントロールできなくて、でも確実に自分の身体性と繋がっていることが、写真にも似ている。
学生時代、写真というものは言葉とはまた違ったひとつの言語だと教わったんですね。何枚も連なることで文章のように読み解いていくことができると。そしてそれは必ずしも論理によって支配されていない、言葉とはまた違った言語空間を持っている。
写真は言葉よりも無意識や偶然を呼び込む性質が強いので、夢の中のように予感や予兆のようなものが、より多く潜在しているんじゃないかと思っています。
—身体の持つ言葉は、必ずしも整合性へと向かわない
そもそも、人間の身体を通じて生きるいのちのありようも、夢みたいに混沌とした状態を常に抱えているように見える。僕はそのことに魅力を感じています。一人の人を見つめていると、まるで海の前に立っているような気持ちになる。そのことは、言葉を覚える以前の赤ちゃんと一緒にいると、より強く感覚されます。身体の持つ言葉は、必ずしも整合性へと向かわない、矛盾さえ孕んだものとして流れ続けている。そこには、抑制しようとしてもできない何かがある。
そういう前提がこの社会意識の中で共有され、少しでも受け止められる<あそび>があったら、そこから生まれる語りに聞き耳を立ててみたい。この身体は社会性を帯びてはいるけれど、社会だけに属しているわけではなく、常に私的な声を発し続けている。そこにまず重心を置くような振る舞いの上から他者と繋がり合っていける可能性を思考したいと思っています。さらに、その異なるふたつの身体を結びつける境界そのものに興味があります。そこに顕れるものを翻訳する写真の言語があるとすれば、もしかしたらそれは詩のようなものではないだろうかと予感しています。