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31回東川国際写真フェスティバルにて、光田由里さん(美術評論家、DIC川村記念美術館学芸課長)との対談  2016.7.30

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光田(以下M) では私は、堀井さんの作品の感想を言って、質問をしたいと思います。堀井さんの写真は、人物が写っているわけですけれど、人と人との間の空間というか、人の周りの空間が、きれいな水みたいに透き通っていて、ちょっとでも触ったらさざーっと波立ってしまうような緊張感があります。そこに、単なる空気ではない、緊張感のある空間や光を感じていました。そして一方、今回の新作だと思うんですが、入ってすぐのところの部屋では、少し翳りを感じました。その翳りは何だろうと思っていたんですが、たとえばお祈りをしているようなポーズの人がいたりして、それと関係があるのでしょうか。まずはそこについて質問したいなと思いました。それと先程、冒頭の紹介で「都市で生活をしている人たちの身体のありようがテーマ」ということを言っておられたんですが、それについても説明してもらっていいですか?

堀井(以下H) まず、「都市で生活をしている人たちの身体のありよう」という主題がどこからやって来たのかお話しさせてください。もともと僕自身が2000年代の半ばに東京に数年間住んでいた事があって、その中で体がどんどん疲弊していくような実感があったんですね。それと同じように、自分の身の回りの友人たちにも同じ事が起こってきたんです。日常生活の中でそういうのは表立って見えてこないんですが、身体の佇まいの中にどこかしら澱みが感じられたり、あるいは無理をしている反動としての一面がある種の衝動に結びついていたりとか、そういった感覚を受けることがよくありました。

ここからはあくまでも個人的な経験なのですが、そういう感覚が静かにほどかれる場所というのが、自分の場合は家のお風呂だったんですね。ひとりきりの湯船に浸かっていると、心身にまとっているものが剥がれ落ちて、流れていく。胎内回帰的な感じ、というと大げさなんですが、水の中で毎日リセットされるような感覚があって、そこに至るまでの一連の思いが起点となっています。

—新作との違いについて

H そして最近の話になるのですが、震災以降、社会を覆うムードや雰囲気みたいなものが濃縮されて、ある方向に強まっていっているんじゃないかという思いを感じ続けていました。ユングの心理学用語で「集合的無意識」という言葉があるんですが、自分たちの意識と意識下の領域というものが存在して、意識下で人は皆繋がっているそうです。その概念から想起されるイメージが、僕には個々人の意識の川から伸びている大きな海のように思えていて、今回のタイトルの「すべて海へ還っていく、そしてまた降り注ぐ」はそこから着想しています。
また近年、自分たちの身近なところで、友人を亡くしたり、また一方では新しい命が生まれてきたりと、いくつかの生と死にまつわる出来事が起こりました。その時間を共有していく中で、それまで澱みのような感覚を抱えてきた人たちの流れが変わってきたように思えて、最近ではその変化を気に留めながら撮影を続けています。

​話は変わるんですが、僕は東京から京都という街に引っ越して来て感じたことがあって、京都は昼と夜の顔というのが少し違うんですね。夜の「静かな力」がすごくある。それはたとえば夜の暗闇に潜む気配だったりとか、神社のしんとした空気に気圧される感じだとか、それは京都だけではなく地方でもそうでしょうし、決して珍しくない感覚だとは思うんですが、その一方で東京では、夜の持つ怖さみたいなものが明るく灯され、どこか漂白されているような印象があります。京都に来てから、子供の頃に感じていた感性を思い出すと同時に、こういった「静かな力」が無くなっていくと、人の心は痩せていくんじゃないかと思うようになりました。
また、生と死にまつわる出来事—そういうものも静かな力のひとつだと思うんですが—そういったことを通過していく中で、写真に写っている彼らが、たとえば死者に対する弔いの気持ち、自分以外の他者への祈りの気持ちなどを持つことによって人生の季節の変化を迎えているように感じています。


M 堀井さんの写真は、プライベートシーンを撮っている写真だと私は受け止めていたんですが、今の話はすごく面白かったです。私も身近なところからしか感覚して何かを受け止めることは出来ないんですが、それが今言われた、個人個人の伝ってくる川から海の中に繋がっていくような、そしてそれを一人一人の表現から奥の方へたどっていけるような視点を持って撮影を続けておられるということが、今の話を聞くことができてとても納得ができるというか、感じることができました。これらの写真から鋭敏な光と距離感を痛いほど感じていたんですが、それを感じている作家が、ある意味社会論や都市論みたいなところに繋がって行けるところ—それはやっぱり写真には日付と場所があるというか、常にそのときその時代のその場所を語っているんだ—とあらためて感じ、そしてそれを堀井さん独自のやり方で深めておられるんだなということを知ることができ、とてもいい時間でした。

          

                                                             

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