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「来たるべき」かつての日々

『すべての人に石がひつよう』というバード・ベイラーの絵本が好きで、それに倣ってときどき「自分の石を見つける」という遊びをする。

自分の石を探す目線を持ちながら河原を歩くと、なぜか目にとまる石がある。道行く人とふっと目が合ったときのように。そして、なぜその石が自分の石だと思うのか、ということを口にしてもらう。


ある人は、この重さがちょうどよかったと言う。その石を持たせてもらって、この人はこんな重さがちょうどいい身体を生きているのか、と唸る。

どんな自己紹介を聞くよりも、拾い上げた石を知ることの方が、その人の奥がわかってしまうことがある。

そのひとが携えている感覚のひとつひとつには歴史が含まれていて、そこに触れることには時々「違うということ」を受容させられてしまう力が宿る。そこにあるのは、同じであることを起点にした共感ではない。むしろ差異を知るということの中に静かな共鳴がさざなみのように起こる、不思議な体感だった。


先日、長島有里枝さんが「港町に育つと強い喋り方になる」と教えてくれて、無意識の発声のような振る舞いもまた土地や文化に紐づいているのだと、目が過去に遡った。

人や風景を見るとき、現在という時間の断面だけでは見えない奥行きがある。そしてまた、私という経験のフィルターにとどまりながら見ようとしても、見誤る。


他者に出会うためには、どこか私を手放しながらそこに触れなければならない。(しかも、触れにいくというより、予期せず触れてしまうようなことがその人の中の遠さに接近したりする)

そのような態度の上で、見えるものを手がかりに見えない背後を想起していける、複眼的なまなざしのありかたについて考えている。


石の重さや手触りを知ったときのように、わかり合わなくてもそばにいられると思えるような、「来たるべき」かつての日々のために。



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