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ブラックホールは時々、宇宙でもっとも強く光る


静岡に帰省していた京都に戻る前に、熱海まで寄り道をして、だいきくんの働いているゲストハウスへ行ってきた。最近、川と共に過ごす時間が長かったのもあって、その先にある海をあらためて思い出したかったのだった。

夜の海辺で、だいきくんの作ってくれたサバサンドを頬張っていると、高校生の頃にデートでこの場所を歩いていた記憶がふつふつと蘇ってきた。蘇ったついでに十代の自分をこの景色の上に重ねてみようとしたら、その熱量の佇まいの違いにとても遠い思いがして、その当時のアンバランスな身体を抱きしめたいような気持ちになった。

未来が過去に少しでも干渉できるなら、と考えるけど、もし可能だとしてもそっと息を飲んで見守り続けるかもしれない。それとも、ぽんっと背中を押して過去を変えてしまうだろうか。変わるだろうか。海に面した道路には、あの頃と同じファミレスがほんの少しだけくたびれた面持ちで残ってくれていた。

じっと海を見つめていると、夜の水面はただ暗いだけではなくて、夜の空の色を映しているんだとわかってくる。それはつまり、宇宙の色だ。そう思った途端に、見慣れたはずの海が鮮やかに見えてくるから不思議だ。海上にはコウモリが放物線を描きながら飛んでいて、その眺めはまるで色の反転した流れ星のようだった。

熱海の町は、以前よりもずっと新しいお店が増えていて、行き交う人たちの流れも顔も確実に変化していた。サバサンドの隠し味にはクミンが入ってるな、と思いながら、やっぱり今日はこの場所に辿り着いてよかった気がしていた。

他人の心の領域を想像力でもって推察し埋めていくようなことをついやってしまうけれど、それをなるべく控えようと思ったのは、わかりやすく言えばそこに交わりがないからだ。触れること。触れてみて、そこに宿る声に聞き耳を立てること。そして、その通い合いの流れの中に潜在する扉の回路が開く言葉を記述していくこと。「見る」ことをめぐる基本態度について。

濱口監督の『不気味なものの肌に触れる』を観る。劇中に、<「触れるのがこわいもの」についてインタビューしてください>というシーンがあって、自分の場合はなんだろうと考えていたところ、おそらく「瞳の奥にあるもの」ではないかと、何日かその問いを引きずった後にそう思い至った。瞳孔をマクロで撮影した写真を見たことがあるのだけれど、それはクレーターの孔のように真っ暗で、しかも底深くまで続いているような窺い知れなさがあった。言うなればブラックホールのイメージに近いかもしれなくって、ある時期はその闇のことばかり考えていた。

こわいものは、同時にそのこわさでもって惹きつけられもする。そして時々、その瞳の向こう側に触れてみたいと思わせる引力と否応無しに出会ってしまう。最新の調査では、ブラックホールは時々、宇宙で最も強く光ることがあるそうだ。その絶対的な暗がりの内にさえある光というものは、一体何から生み出されるのだろう。








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