20センチの法則の中で

深夜0時の丸太町通りを東へと疾走するタクシーの中で、携帯を握りしめていた。握りしめる力と同じくらい、奥歯を噛みしめていることに気づく。ふと運転手さんが何か言ったような気がしてイヤフォンを外すと、ラジオが「人に迷惑をかけてもいいんです」と喋っていた。こんな時にそれらしい言葉。まるでドラマみたいだと思った。グーグルマップの現在位置を示す青いアイコンが、画面の上を滑らかに進んでいく。呼吸にも似た等間隔の明滅を繰り返しながら。「病院まで残り5分」の表示が「2分」に更新されたタイミングで、身体が大きく右に揺さぶられ、反動で左に傾いた。どうやら河原町通りに入ったようだった。毎朝通っている道のはずなのに、まったく知らない街にいるような気がする。群青色の夜の底で、急流に流される魚みたいだった。ここは一体どこなんだろう。

夜間救急の待合所に座っていたK君と、ガラス越しに目が合う。K君の目の縁が滲んでいる。おそらく僕も同じ顔をしていただろう。僕らは何も言わず抱き合った。本当は何か言っていたかもしれない。僕の耳がK君の頬のあたたかみに触れている。もっとちゃんとした形で再会したかった。力の抜けた声でK君が言った。

一時間前、僕は松尾橋の上で一本の電話を受け取った。電話口で、U君が苦しそうな声でしきりに「ごめん」と繰り返していた。何を言っているのか半分以上聞き取れず、でもそれが尋常でない様子であることだけはわかった。「明日の朝、うちに来て」「腐ったまま見つかりたくない」そのまま突然に電話は切れた。京都は昨夜から冷え込みが強まって、橋の上は刺すような風が吹いていた。寒さで震えているのか、一瞬わからなくなる。空はやけに澄み切っていて、オリオン座が美しく輝いていた。おもむろに携帯を撮影モードにスライドすると、南に輝く星へカメラを向けた。なぜか今撮らなかったら、後悔するような気がして。

写真を撮った直後、少し迷って、共通の友人のK君に電話をかけた。しかし、やっぱり出ない。だって僕らは喧嘩をしたまま、もう半年も会っていないのだ。その間、お互いに一度も連絡していない。「非常事態」とLINEを送って、もう一度かける。お願い。出て。コール音が途切れると、がさがさと背景音がして、そこから2秒程してK君の声がした。視線を上げると、流れ星が閃光を放って落ちた。こんなタイミングで流れ星だなんて、ドラマじゃなくてファンタジーの世界だ。K君はただならぬ事態を飲み込むと、すぐに警察に電話するように勧めてくれた。久しぶりに聞くK君の声に、僕は少しだけ落ち着きを取り戻した。その後、U君の家に警察と救急車が駆けつけ、救急搬送された病院へと僕らは向かった。

担当医の方が挨拶をしてくれた。一言目に、致死量でした。それから、胃洗浄を続けながら拮抗薬で治療を続けます、と告げて。3時頃、ようやく意識が回復して面会が許された。身体のあちこちを管に繋がれているU君は、嗚咽をあげていた。緑色のチェックシャツの裾に、嘔吐の跡が乾いたまま張り付いている。血の気のない手を握る。一歩でも手違いがあったら、この嗚咽も聞けなかったかもしれない。手の力をふっと緩めると、今度は強く握り返された。まるで赤ちゃんのようだと思った。その瞬間、胸の底から何かが込み上げて来て、生きて戻ってきてくれたことに感謝の気持ちが湧き溢れた。自然と、「おかえり」と言う言葉が口をついて出た。混濁した意識の中、U君が「ありがとう」と言う。この人はぎりぎりの状態で、最後に「生きる」を選択したのだった。顔を見るまではいろんな気持ちがないまぜになっていたけれど、今はその選択の果てに彼が助かったという事実と、一連の運びがうまくいったことの幸運さが示す意味を尊重したい気持ちだけが残った。

病院を出ると、冷たい雨が降っていた。もう3時半を過ぎていて、明日も仕事だった。K君に、少しだけ散歩をしようと声をかけ、そのまま丸太町まで歩いた。そしてもう一度、ハグをした。心のこもった抱擁だった。ずっと会いたかった。ようやくそこで言葉になった。身体の奥に詰まっていた澱みが溶け出して、洪水のように流れていくのがわかった。自分自身についている嘘というものは巧妙で、そのことに気づかないくらい隠されていることがある。そしてそれは必ず身体のどこかにちいさな塊をつくる。けれど、抱き合っていると彼の息遣いが皮膚の内側に届いて、まるで胸と胸が繋がり合うような感覚になっていくのだった。そしてその至近距離の宇宙で、僕の武装はすっかり無効化されていった。心が、あるべき柔らかさに揺り戻されていく。僕もだよ。K君の言葉の震えを、目を閉じたまま聞いていた。いつまでもそうしていたかった。

翌朝、仕事場に向かうバスに揺られながら、ぼんやりと昨夜のことを考えていた。U君のことと、K君の再会のインパクトが渾然となって、まだ夢の中にいるようだった。バスを降りて5m程歩くと、目の前にK君の顔があった。顔という記号を認知することと状況を認識することの間には大きな開きがあって、そこにK君がいることを理解するのに10秒ほどかかった。僕らはまたもや偶然によって出会ったのだった。現実がファンタジーを颯爽と追い越していく。え、なんで。なんでって、なんで。そんな言葉を交わしながら、また自然とハグをした。

K君に触れていると、かつて覚えていたはずのことを忘れてしまった世界に生きているんじゃないかと思えてくる。触れることで、その記憶にほんの一瞬だけ届きそうになる。出会いを重ねることは、自分のかたちの断片を集める作業に似ている。

今回の出来事を通じて、人生の裏地をかがっている見えない糸に触れてしまった気がした。見えない糸。それは確かに僕らの背後にあり続けているのだという確信が、あの時の記憶の殆どを満たしている。自分がこの身体を使って生きている理由は、何なのだろう。世界は再び始まった。




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