沈黙に、輪郭が与えられる
Uくんが企画した寺尾紗穂さんのライブがいよいよ開催。授業を終えて、旧大津公会堂へ急ぐ。その土地の空気に身体が調律され、響きが増幅するような、素晴らしい演奏だった。『たよりないもののために』はやはり別格で、しかもその時々に置かれている状況で<たよりないもの>の聴こえ方の豊かさに気づく。この歌を浴びる度に、<遠い昔にわかっていること>が記憶の彼方で目覚めかけるような、懐かしい問いが身体の中を通り抜けていくような心地がする。そして、寺尾紗穂さんの音楽は、「私」を所属させているあらゆるしがらみをやさしく解しながら、「ひとり」の状態に戻してくれる、稀有さがある。
ライブ終了後、打ち上げの末席に加えて頂く。寺尾さんは、聴くという行為に重心が置かれる、文筆家の佇まいをされていた。会話というのは生き物のようなもので、そこに居合わせた人たちが生み出す引力のようなものが語らせるものがあるなと思う。あの小さな時間とともに、とても愉しい夜だったな。
『寝ても覚めても』を観る。観終わってしばらく何も言えないような気持ちになって、その後何日か経ってから、その素晴らしさがじわじわと押し寄せてくる。
日常の中で、ふと飲み込んでしまう言葉や態度というものがあって、それは大抵の場合、沈んだまま埋もれていってしまうのだけど、濱口監督の描く台詞劇を目の当たりにすると、それが小さなあぶくのようにぽこぽこと浮かび上がってくる。その浮かび上がってくる心地でもって、あ、これは沈んで消えてしまうことなく、いつまでも底に堆積したまま残っているものなんだ、と思い知る。あるいは、言葉の形を取ることもなかった沈黙に、輪郭が与えられる。
たとえば『ハッピーアワー』で桜子があかりに放った、<私はきっと、あかりに大事なことは言わへん。言うたかて、自分の物差しで人のこと測るだけやろ>という台詞が、寄り添われなさに付帯する小さな傷口を照らすように。そうした、はっとする瞬間が掬い上げられるたびに、表現されることのなかった感情が密かに供養される思いがする。
<一度生まれた愛は二度と消えることなく、空と海の間を回る>とエンドロールで流れるtofubeatsの『RIVER』の歌詞を聴いて、ようやくこの映画が自分自身の経験として昇華するきっかけを得た気がした。ずっと前に手放した、かつて愛だった何かは、今頃どこを巡っているのだろう。
龍の夢を見た。じっと頭上の雲を見つめながら、なんて龍に似ているのだろうと思っていると、それはおもむろにはっきりとした輪郭を帯び始め、本当に龍の姿になった。口には鯉みたいな縁取りが、そして下顎には牙が生えていた。龍は夢の言語で何かを告げると、くるくるとその場を何周かして空に消えていった。
鴨川デルタまでいそいそと出かけて、ちょうど良さそうな川べりで坐禅をする。坐禅を組むと、思考のお喋りが止んで心身の感覚が再起動する。それは例えるなら、かき回されて濁っていた水の土が沈んで、次第に透き通っていくような感じに近い。自分にとってのフラットな位相がわかるだけで、身体の中にも帰る場所があるような心地がする。