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未来から向けられる眼差し

美馬くんの家にお泊まり。最近の恋をめぐる話を肴に、美味しいポテトチップスを食べる。一瞬で無くなる。

朝起きてカーテンをめくると、緑が眩しかった。彼の家の庭は、この夏の猛暑を生き延びて、その鮮やかさをまだ残しているのだった。植木鉢と違って、地面に植わった植物は、水がなくなっても根をどんどん伸ばしていくから丈夫なのだと言う。植物は地上を歩かない代わりに、地面の中を歩いているのかもしれない。

よく、展望台から街が一望できるというけれど、東京に住んでいた頃は、地平を見渡す限りどこまでも屋根が続いていて、そのコピーアンドペーストを繰り返したような風景が、なんとも空恐ろしく感じられていた。その眺めは、自分が代替可能な存在に思えることとどこかで繋がっていて、その根底には、おそらく何もない自分でいることへの不安感があった。そんなことを、今では他人事のように遠い記憶として覚えている。

京都の町には山という果てが見えて、その程よさにとても安心する。あそこにはあの人の家があって、その近くにはあの人が働いている、そんな風に点を穿ちながら自分だけの星座をつくっていける。親しい星を結びつけていく地上の星座は、さながら自分史の俯瞰地図でもある。

高橋先生を撮影する。そもそも人は撮られる時、カメラ(あるいはレンズ)を見ながら何を見ているのか、ということのわからなさをいつも思う。そしてそれは同じ構造でもって、人を見つめる時、その眼の奥に何を見ているのかという問いに繋がっている。

僕はポートレイトを撮影する時に、ひとつの決まったやり方がある。被写体の方に、カメラを媒介として未来から眼差されるもう一人の自分とコミュニケーションをとってもらうことをしている。<今撮られている自分>と<出来上がった写真を見つめているもう一人の自分>という、いつか交錯するはずの時間軸の隔たった視線を、想像力でもって繋げてもらう。その時カメラは、その人にとって像の見えない鏡からどう変質し、作用されるのだろう。

自分という眼差しに触れること。それは僕らが「ひとり」という単位に戻るきっかけでもあり、そんな静かな時間が魂を回復させてくれるように感じている。それは言い換えたら「孤独」であり、しかも肯定的な孤独だ。









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