諦めることを誰かと一緒に共有する

二歳になる姪っ子が、長崎から遊びにきている。一年半ほど前にうちにやって来たときにお気に入りだったミッフィーの小さなぬいぐるみを見せて「これ覚えてる?」と訊くと、「うん、赤ちゃんのときね」と答えてくれた。

いつだったか夢の中で、「人は前世で住んでいた惑星と同じかたちの瞳を持って生まれてくる。だから目を見て親しみを感じる相手は、同じ星からやってきたんだよ」と教えてもらったことがある。それが本当かどうかはわからないけれど、そのイメージはずっと頭の片隅にあって、今でも誰かと対面した時には瞳や瞳孔にじっと見入ってしまうことがある。


哲学の道にはもう蛍がいた。小雨が降っていたけれど、川沿いの葉桜が屋根になってくれて、傘を閉じたまま雨音と蛙の鳴き声に包まれる、とても心地のよい静けさだった。

「夢の中では光ることと喋ることは同じこと」という穂村弘さんの短歌のフレーズと、先日観た映画「メッセージ」を思い出しながら、人は言葉があるから光を持たないのかもしれないと思った。それでも時々、人の心から放たれるような光に立ち止まってしまう瞬間がある。

大学の帰りがけに、守衛さんが目を輝かせながら「今夜は宇宙ステーションが見えるんですよ」と教えてくれた。宇宙ステーションは、地上から400km離れていて、その距離は大阪と東京の間くらいに相当するらしい。宇宙は思っていたよりも近そうだ。

KくんとYさんと食堂ルインズで待ち合わせをしていたので、急いで向かう。時刻が迫ってきたタイミングで中庭の灯りを消して頂いて、ほんの数分みんなで空を仰ぎ、じっと宇宙ステーションに目を凝らした。その光は流れ星よりも遅く、飛行機よりも早かった。


小沢健二がいいともで『美しさ』を歌っていたのを、当時付き合っていた恋人と二人でリビングで眺めていた。その数分間の空気の特別さを、まだ覚えている。四年前の春のことだ。

彼はこの曲を通じて、「本当はわかってる、二度と戻らない美しい日にいると」という永遠性への諦めを歌う。だけどそれは諦めることを誰かと一緒に共有することができるという、優しい諦めでもある。彼も僕も友人たちも同じ速度で年をとって、かすれていく魂の中でひとつの歌を聴けることは、「そして静かに心は離れていく」としてもなお、幸せの一部なのかもしれない。