価値のある声
夢に近い声で生きたい。と思いながら目覚めることがある。
最近観ている『エルピス』というドラマの中で、「いい人間になれば、勝手にいい声になるんだよ」という台詞を聞いたとき、至極わかる思いがした。ここで言うところの「いい人間」とは、必ずしも(というか決して)道徳的な範疇の「よさ」を指さない。
時々、いい声をもつ人に出会うことがある。本当のことを言おうとしている、と思う声だ。声質がいいとかそういうことではない。ことあるごとに自分の心を覗き込もうとしてきた人の声の芯であり、無数のためらいをくぐり抜けてきた人特有の響きである。
そういう声には価値がある。その声のまともさに触れると、あなたは違和感を飲み込もうとしていないか、と問いかけられているような気がして、はっとする。
誰かの手によって用意されたマニュアルや原稿を読み上げる「訓練された声」は、あらかじめ設定された場所に向かって相手を誘導しようとする意思を秘めている。言葉が交わされているように見えて、それは言葉の姿をした違う何かだ。
その何かに囲まれながら生活していることに慣れてしまうと、求められている正解を逆算して自らをそこにあてはめていくような振る舞いを覚えてしまうようになる。そして、道徳的な範疇の「よさ」を形にしたような声を使えるようになるのだ。それはまるで、コンビニのシャキシャキレタスのサンドイッチのような面構えをしている。
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夢の中には、身体という鎧をもたない軟体生物のような自分がいる。それは嘘がつけない。つけないというよりも、ついたところでそれを隠す身体がないから、嘘をついた様態として存在してしまうのだ。そのさまはきっと、テレパシーが交わされる世界にも似ているだろう。
逸脱した声が交わされる未来を夢見るとき、それはどこか、AIの持つ欲望のようにも思えてくる。夢に近い声で生きたいと思いながら、目を覚ましたあとの遠いアラームを聴いている。
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