強さの価値
お元気ですか?と訊かれて、即座に元気であると返すことができない。
それは、元気であることが求められていながら、その状態が自分にとっていつも過剰だからだ。元気なときはその強さゆえに、世界に「触れている」感覚しかなくて、世界に「触れられている」ことが感じづらくなくなっている。
それは対人感覚にも同じことが言えて、私があなたに触れていることしか見えなくなって、あなたが私に触れている感触を見失ってしまう。他者の痛みを想像する力がぼやけてしまうのだ。それゆえ、世間で言われるところの「強さ」の価値をあまり高く感じていない。
元気であることが常態に設定されているとするなら、この社会はもしかすると無理をしている人を基準に回っているのかもしれない。
僕はどうやら、元気というラインのいちだん下のライン(友人はそれを低空飛行と呼ぶ)が、なんだかちょうどいい塩梅であるように思う。
毎朝、玄関を出て道路を歩くときに靴のなかの感覚が新しくなっているかどうかを確認するのが、ひそかな楽しみだ。
足裏がアスファルトに「触れている」ことと、そこから「触れられている」ことが同時にわかるのが、自分にとってのフラットラインだ。
夜になるとわからなくなるものが、眠りを経た朝にしっかりと調律される。その状態から生まれていく「弱さ」の力を信じている。
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