2015.8 つれづれメモ

 

 

 

 

御手洗川の浅瀬に足を浸してぼうっとしている時間がとても心地よい、八月の始まりだった。

京都に来てからというもの、裸足で地面に触れたり、月光浴をしたり、そういう時間をもつことが多くなった。鴨川や桂川といった余白があることが、この土地の人々に豊かさをもたらしていることを日々目の当たりにする。

道々で目にする植物のうつろいで季節の変化を感じられることだったり、献立に旬のものを採り入れることだったり、夜に感じる死の気配だったり、そういう感覚の蓄積が、僕たちが大きな関係性の中で生きているという実感を繋いでくれる。

 

ほんの少しリミッターを外すだけで、野性や自然と繋がれる感覚が潜んでいることに気づく。

川の流れに足を浸けていると、自分の中の水の流れと繫がる瞬間がある。血液の流れる速さが秒速40、50cmらしい。

「私は海を抱きしめていたい」と言ったのは坂口安吾だった。しかし、既に身体はその始まりと同時に海を抱えている。体内には5リットルもの血液が流れ、まるで海が微生物を宿すようにそこでは20兆個もの赤血球が絶え間なく生きている。

どこか他人事のようでもありながら、しかしその健気さを時々無性に抱きしめたくなる。そういえば、地球という惑星もまた、銀河の羊水に浮かぶ生命体だ。その地球の意志とは無関係に生きている僕もまた、彼からすれば健気な存在なのかもしれない。

 

神前に手を合わせる時も、故人を想う時も、ここではないどこかに意識をアクセスしている。そこは一体どこなんだろう。思いの数だけあるのか、それともすべてを包括しているような大きな次元なんだろうか。意識という内なる宇宙から、遠くの存在に目を凝らすさまの不思議さ。

 

人の心の営みがつくる、目に見えない川や海を想像する。

 

 

 

意識という小さな粒子の集合体が、蚊柱のように自在にかたちを変えながら人の顔の周りを飛んでいる想像をしている。意識の粒子、ひいては感情の粒子は人間だけのものではなく、植物にもあるのだとしたらすごく腑に落ちるのだけど。たとえば機嫌のいい木とそうでない木がその森の雰囲気に与してる、そんな気がするからだ。

 

これまで、「からだの声を聴く」ということを主題に置きながら写真を扱ってきたけれど、果たしてどこからどこまでが自分のからだか、ということをよく考える。皮膚を境界とした静的な身体を、解像度を上げながら観察していくと、他所からのエネルギー(物質的だったり観念的だったりする)の入り混じった動的な身体が立ちあらわれる。

遠く離れながらも見えない糸で関連し合っているイメージ同士を繋げるように写真を束ねたいと、ずっと思っている。それは身体のあちこちにあるツボがあらゆる臓器に繋がっているように、東洋的な物の見方が教えてくれる気がしている。ちなみに最近お灸にはまっています。お灸は本当に不思議で、足三里というツボを温めると冷えがとれたり、合谷を押すと頭の中に響くところがあったりする。

身体は小さな宇宙だから、その仕組みが他の大きさの宇宙にも当てはまるのだとしたら、例えば西洋占星術のホロスコープは太陽系の経絡の地図という見方も出来るのかもしれない。それにしても、遠く離れた惑星同士が関連し合っているという発想が昔からあるのは面白いな。

 

 

 

これまで、「からだの声を聴く」ということを主題に置きながら写真を扱ってきたけれど、果たしてどこからどこまでが自分のからだか、ということをよく考える。皮膚を境界とした静的な身体を、解像度を上げながら観察していくと、他所からのエネルギー(物質的だったり観念的だったりする)の入り混じった動的な身体が立ちあらわれる。

 

 

遠く離れながらも見えない糸で関連し合っているイメージ同士を繋げるように写真を束ねたいと、ずっと思っている。それは身体のあちこちにあるツボがあらゆる臓器に繋がっているように、東洋的な物の見方が教えてくれる気がしている。ちなみに最近お灸にはまっています。お灸は本当に不思議で、足三里というツボを温めると冷えがとれたり、合谷を押すと頭の中に響くところがあったりする。

身体は小さな宇宙だから、その仕組みが他の大きさの宇宙にも当てはまるのだとしたら、例えば西洋占星術のホロスコープは太陽系の経絡の地図という見方も出来るのかもしれない。それにしても、遠く離れた惑星同士が関連し合っているという発想が昔からあるのは面白いな。

 

 

 

 

 

 

 

 

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