2015.8 おくる
友人の初盆だった。
片道三時間をかけて、彼の育った町へ行く。みかんが採れることで有名な、山に囲まれたのどかな町だ。駅まで迎えに来てくれたご家族の車のバックシートにもたれながら、彼の家へ向かった。運転するお姉さんの目元や横顔が彼によく似ていて、ミラー越しに思わず見入ってしまう。
「この辺りは秋になると畑も山も橙に色づくんです」お姉さんの声を聞きながら、窓の外に視線をやる。いたるところに低木の植わった、まるで迷路のようなみかん畑のあいだをくぐり抜けて、車は走っていく。遠くに見える山肌の青の上に、かつてそこにあっただろう景色を想像してみる。少年だった彼が眺めていたに違いない、橙色の記憶を重ねるようにして。
仏壇の中には、まるで他人事のような顔をした彼の写真と、掌に収まりそうなくらい小さな円筒形の骨壺があった。「四十九日はもう過ぎたんですが、まだお墓に入れるのがしのびなくって」訛りを交えながら、お父さんがゆっくりと語り出す。その少し間延びした口調や、独特の抑揚は、彼の中に流れていたリズムを思い起こさせた。人の源流とは、家族だ。そんな当たり前のことにあらためて気がついた。
仏前には、訪れた人たちが持ってきてくれたであろうお菓子やお花が供えられ、そこから静かな光が放たれているように見えた。六畳の仏間全体が、彼を悼む気持ちで満ちているのが感じられる、今までに触れたことのない空気だった。それはかなしみだけでもなく、やさしみだけでもなく、ちょうどお盆提灯からこぼれる水色の淡い光に似ている気がした。
おりんを鳴らし、手を合わせる。細やかに空気が震えるそのひととき、何かがこみ上げてきそうになるのを、高く澄んだ音色がきれいにさらっていく。水面を広がっていく波紋を想像しながら、気持ちがこの振動に伝わって、彼の元へ届くんじゃないかと思った。
神前や仏前に手を合わせる時、ここではないどこかを想っている。心の目でぼんやりとまなざすそこは、一体どこなんだろう。目を瞑りながら、意識の深みのなかで彼に呼びかける。そんな不確かな場所で繫がるための感性が、いつのまに自分たちに備わったのだろう。
線香の煙が生まれてはたちまちに輪郭を失い、宙に消えていく。そんなものをいつまでも見ていたかった。散り散りになってすぐに見えなくなってしまうその流れの向こうに、彼や自分のかたちの断片があるような気がしていた。変わり続けながら変わらないもの———
それは例えばこの線香の煙なのかもしれない。そのひとつひとつの粒子は消えることなくこの世界のどこかを彷徨い、存在し続けている。そのわずかな塵の一点に、生と死の重なりが結像しているのかもしれない。そう思うと、今まで透明だと思われていた見渡す限りの景色が、いちだん濃く感じられるのだった。