2015.7 からだの声を聴く
御手洗川の浅瀬に足を浸してぼうっとしている時間がとても心地よい、夏の始まりだった。
京都に来てからというもの、裸足で地面に触れて寝転んだり、月光浴をしたり、自然と「リミッター」を外せる時間をもつことが多くなった。
そして東京にいた頃のように、何かを我慢する一方でそれを発散することが少なくなったし、そのために消費や社会が回っているような不健康さを感じることがなくなった。何より、鴨川や桂川そして鎮守の森を抱える神社や寺といった町の中の余白があることが、この土地の人々に豊かさをもたらしていることを日々実感している。
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川の流れに足を浸けていると、自分の中の水の流れと繫がる瞬間がある。
「私は海を抱きしめていたい」と言ったのは坂口安吾だった。しかし、既に身体はその始まりと同時に海を抱えている。体内には秒速40、50cmの速さで5リットルもの血液の川が流れ、まるで海が微生物を宿すようにそこでは20兆個もの赤血球が絶え間なく生きている。それはどこか他人事のようでもありながら、その健気さを想像すると無性に自分を抱きしめてやりたい気持ちになる。そういえば、地球という惑星もまた、銀河の羊水に浮かぶ生命体だ。その地球の意志とは無関係に生きている僕もまた、彼からすれば健気な存在なのかもしれない。
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これまで、「からだの声を聴く」ということを主題に置きながら写真を扱ってきたけれど、果たしてどこからどこまでが自分のからだか、ということをよく考える。皮膚を境界とした静的な身体を、解像度を上げながら観察していくと、他所からのエネルギー(物質的だったり観念的だったりする)の入り混じった動的な身体が立ちあらわれるからだ。
きっと、「東京という身体」と「京都という身体」の容貌はそれぞれ違いながらも、目線をひとつ上げて見たらお互いにひとつの身体の一部分ずつだったりするのだろう。そんな風に、遠く離れながらも見えない糸で関連し合っているイメージ同士を繋げるように写真を束ねたいと、ずっと思っている。