2010.4 夜の息継ぎ
カレンダーの暦が何月になろうとも、春を伝える風が吹こうとも、 体の中に季節がやって来ないと、いつまで経ってもそれを実感できない。
だけど体は、たとえばウェブページをリロードするような具合に、クリックひとつで変わっていくような代物ではない。
何がきっかけになるのかわからないが、あるときある瞬間にふと、 あ、春になった。と体の内側から突然沸きあがってくるのだ。
春が「来る」のではなく、春に「なる」。そういう感覚に近い。
それはもしかしたら外気温の移ろいに左右されているのかもしれないし、吸い込む風の湿り気に何かを嗅ぎ取っているのかもしれないし、
あるいは季節の食べ物の滋味が細胞に染み込むうちに、まさしく春に「なる」体づくりをしているのかもしれない。
だけど今年ばかりはその循環がうまく機能していない。春が、長い。それも冷たい春が、消えない。
遠くアイスランドで火山が噴火しているという。タイでの紛争が続いてると、リツイートされた写真がいう。
行ったことのない遥か彼方で起きていることと、今ここにある自分の体に起きていることとの深刻さのあいだにはどれほどのギャップがあるのか見当もつかない。まだ見ぬ世界を見る目と、今ここに立つ足のあいだにはおそらく人類が初めて味わっているだろういびつさがあって、その違和感に体が引き裂かれそうになるときもある。
だけど、言葉を発しなければ埋もれてしまいそうなこの世界のなかで不思議と思うのは、もっと聞き取りたいということだ。
言葉の奥にあるものを訊きたい。言語を持たぬものの声を聴きたい。数多の現象を繋いでいる巨きな沈黙の源を知りたい。
そして隣人の顔を、よく見ていたい。
この体に宿っている本音を見失わないようにと、それだけを思って、冷たい春の次にやって来る季節を、待ちわびている。